2014年12月26日金曜日

続・16、平井照敏「大きな手おりきて夏の杉林」 



平井照敏「大きな手おりきて夏の杉林」

平井照敏 1931〈昭6〉3.31~2003 〈平15〉9.13)の自信作5句は以下通り。


大きな手おりきて夏の杉林         「槇」平成元年8月号 
台風の沖を過ぎゆくひろしま忌          〃  年9月号  
壁の中より現れてゆりの花         「槇」〃  2年7月号  
森のごときをんながねむる夏電車         〃    〃 
くちなしの硼酸水のごときかな          〃    〃  

一句鑑賞者は小河信國。その一文の中ほどから「杉林は元来、静けさにみちているが、殊に夏の杉林となると、これは静謐そのもの。大きな手がしずかに降りてくる舞台として恰好である。この句に感得される静けさは、しかし、いつの間にか《大きな手》に呼応する杉林の天への志向、垂直をめざす静謐といったものになりおおせている。下降運動はいつしか上昇運動に反転していて、そこに件の《て(・)》の微妙なたゆたい(・・・・)が働いている」と記されている。

さらに白秋の短歌「大きな手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも」(『雲母集』)を引用しながら、鑑賞は次のように展開されている。「白秋の《大いなる手》には原始的生命力の如きものが感じられるのに対し、照敏の≪大きな手≫には、現代人の魂の渇仰、絶対的静謐といったものを感じる。かく言えばとて、両者になんらかのアナロジーを見ようとするのではない。ただ、近代詩の危機と停滞の中で本能的に『桐の花』一巻を掴み取り、多産豊穣の詩の海を泳ぎ抜きついに、いのち(・・・)の静謐を体現する短歌に到達した白秋を思うとき現代詩から、やはり定型詩たる俳句へ進み入った作者の歩みは、なかなかに興味深いことであったと考えるのである」。 

平井照敏(ひらい・しょうびん)は、フランスの詩人イブ・ボンヌフォアの研究者であり、詩人であったが、60年代から短詩形に関心を抱き、青山女子短期大学の同僚であった加藤楸邨に師事し、「寒雷」に投句、のちに「寒雷」編集長を務めたが、74年「槇」を創刊主宰した。句集に『猫町』『天上大風』ほか。評論集に『沈黙の塔』など。

2014年10月17日金曜日

続・15、進藤一考「戀螢歩む螢となりにけり」


進藤一考「戀螢歩む螢となりにけり」

進藤一考 1929〈昭4〉8.1~1999 〈平11〉3.17)の自信作5句は以下通り。

戀螢歩む螢となりにけり          「人」平成元年9月号
一茎の花統べ水引草のすべて        「人」〃 2年1月号 
鸚鵡貝うしほに乗れり新糖期           〃  4月号 
かげろふの自縛ひたすら琉球弧          〃  4月号
三月に其角忌ありと砂塵かな           〃  6月号  
一句鑑賞者は吉村一志。その一文の中ほどから「戀螢なんて存在するものか、と疑ってあれこれ詮索する人に、戀螢を納得できるよう説明することは、螢は渡り鳥と同じように季節を選んで渡る、渡り虫であることをいくら言葉を費やして説明しても信じてもらえないのと、どこか似ているのだ。/蛍は渡るのだ。日本を離れるため、何十万という螢の大群が集まり、闇に息をひそめ、刻を見計らっている螢谷があるのだ。その螢の大群が一斉に光を放ちとび立つ様は、龍が燃えて天にかけ昇るかに見えると云う。(中略) 終結部の、けりは軽重深浅さまざまに使われているが、この句は断定の重みを強く読み手に押しつけて快い。とそんな小賢しい理屈などどうでもよいのだ。平淡な除法で一気に戀の機微に参入させながら濃艶に堕落しなかったこの佳句を限りなく感得するだけで全て足りるのだ」とある。

進藤一考(しんどう・いっこう)は本名・一孝(かずたか)。1958年、「河」創刊に参加し、角川源義に師事、75年源義没後、「河」主宰となるが、79年「人」を創刊主宰した。「俳句情念論」を主張した。その「人」誌は現在、佐藤麻績が主宰を継承している。一考の句集に『斧のごとく』『黄檗山』『真紅の椅子』。代表句には「単日や斧のごとくに噴煙は」「夢殿のあたりの春の砂嵐」などがある。


2014年9月26日金曜日

続・14、加藤郁乎「伊勢るまで待ちて業平蜆かな」

加藤郁乎「伊勢るまで待ちて業平蜆かな」

加藤郁乎(1929〈昭4〉1.3~2012 〈平24〉5.16)の自信作5句は以下通り。

終るまで男は河東舞燈籠          「俳句」平成元年11月号 
半道に五里八幡や秋まつり         「朝日新聞」〃10月13日夕刊  
梅川か柳か羽織落しけり          「俳句」平成2年3月号  
伊勢るまで待ちて業平蜆かな              〃  4月号 
在庵に定家煮つけるついりかな             〃  6月号  
 
一句鑑賞者は仁平勝。その一文の冒頭には「たとえば固有名詞をそのまま動詞化してしまう芸は郁乎の専売特許だ。

かつては『虹りゆく朝半宵丁にセザンヌるかな』『牡丹ていつくに蕪村ずること二三片』『句じるまみだらのマリアと写楽り』といった名句がわたしたちを狂喜させたが、このたびは『伊勢る』ときた。イセルといえば、逢引などで相手を待たせてイライラさせたり、じらしたりすることだが、『伊勢る』となれば当然そこにいわく俳諧的な転義が成立する。業平を呼び出すための面影をつくることだ。/業平蜆は、江戸本所の業平橋近くでとれる蜆で古くよりの名物である。こちらは転義という以前に、俳句という文芸で『業平蜆』とくればそのモチーフはどうしたって『業平』の名前だ。古川柳に『業平は煮られ喜撰は煎じられ』の句があって、つまり『業平』は蜆で、『喜撰』は茶だが、ようは六歌仙が煮られたり煎じられたりするところにおかし味がある」。次の段では「伊勢の留守という言葉がある。夫を伊勢参りに送り出して、女房が一人家にいるのだが、この瑠中に間男すると神罰が当たるそうだ。『いせの留守一と思案していやといふ』という柳句もある。となると『伊勢る』とは亭主が伊勢参りに出かけることだとする解が、がぜん生き生きと浮かび出てくる。男を引き入れたいが罰にあたるのもいやだから、色男の名をもじって蜆でがまんしようというのかもしれない。(中略)/ひとついい残したが、伊勢魔羅といって伊勢の男のモノは極上であるらしい」と結んでいる。

まるまる全部、仁平勝の鑑賞文を引用した方が、リアリティーがもう一段増したと思うが、なかなか見事な読解である。そしてまた「俳句の言葉は、今ふうにいえばファジイであるのを本質とする。『伊勢る』はつまり『業平蜆』をファジイにするための仕掛けだ。そもそもたかが蜆に『業平』と命名することが粋ではないか。郁乎の一句は、その粋にこだわることが俳句という言葉遊びなのだと主張する。それは処女句集『球体感覚』から一貫して変わっていない。そして一方、そういう主張がついに理解できない俳壇というムラの政治も変わっていない」と書き残している。さてさて、現在はどのような状況なのだろうか?

2014年8月29日金曜日

続・13、鈴木鷹夫「人日やふところの手が腹を掻く」

鈴木鷹夫「人日やふところの手が腹を掻く」

鈴木鷹夫(1928〈昭3〉9.13~2013 〈平25〉4.10)の自信作5句は以下通り。

こころの火落して眠る初昔         「俳句」平成元年3月号 
一斉に鴨帰る日の鴉かな          「門」   〃 6月号  
露の世と言ひし男のすぐに酔ふ       「門」平成2年1月号  
人日やふところの手が腹を掻く       「俳句」 〃  3月号 
また一つ日傘が消ゆる裏千家        「朝日新聞」平成2年7月13日

一句鑑賞者は脇祥一。その一文には「掲句の状況としては色々考えられるであろう。七草粥を食べ終わったあとの、所在なさに、ふところの手が思わず腹をポリポリと掻いていたというのかも知れない。あるいは戸外に散歩に出たところを見てもいい。正月のめでたさも松の内だけで、明ければ実際人は生業にもどらなければならない。その分かれ目の日が七日というところでろうか。七草粥を食べ、無病息災を願うというめでたい日においては、やや行儀の悪い、ものうい、この所作が、うまく『人日』と反映し合って、ある味わいを出しているところに、俳諧の妙味があるのであろう。『人日』という季語を得て、腹を引っ掻くという当り前の所作が当り前でなくなったのである。『七日はや』と『人日』と比べてみるがいい。この『人日や』は動かないであろうし、絶妙とも思われるのである」とある。

鈴木鷹夫は最晩年、諧謔味の横溢した句集『カチカチ山』を上梓したのち、しばらくして身罷ったのだが、「門」創刊時にはさすがにその気力をまっすぐに詠み、〈「門」創刊を祝す〉と前書きして「白刃の中ゆく涼気一誌持つ」の句を残している。加藤郁乎も其角が好きだったが、鈴木鷹夫もそうだった。小説に『風騒の人―若き日の宝井其角』がある。

鷹夫が亡くなる前年「門」は25周年を迎え、その折は、〈無季〉と前書きしてまで「『門』二十五周年草臥れて幸せで」と詠んでいるほどだから、自足の一生というべきであろう。その「門」は現在、夫人の鈴木節子が継承して新道を歩みつつある。



     

2014年8月8日金曜日

続・12、八木三日女「高野烏何でもああと待ちぼうけ」


八木三日女「高野烏何でもああと待ちぼうけ」
                                    

八木三日女(1924〈大13〉7.6~2014 〈平26 .2.19 〉の自信作5句は以下通り。

小槌から象の耳出て改元令         「現代俳句」平成元年4月号 
啄木鳥よ闇を叩けば火を噴くよ        「花」  96号  
飛行船わたしの五月病のせて         「俳句芸術」平成2年8月号  
黒牡丹昭和に女ざかり経て           〃    〃 
高野烏何でもああと待ちぼうけ        「現代俳句」平成元年10月号

一句鑑賞者は大沼正明。その一文には「三日女は幸か不幸かその初期において〈満開の森の陰部の鰓呼吸〉〈黄蝶ノ危機ノダム創ル鉄帽の黄〉と主情的に開き直り、それを他者に示すことで意志的にも自己を明らかにした。〈初釜や友孕みわれ涜れゐて〉〈たとふれば恥の赤色雛の段〉と心深く傷つき、それを活字とし公にすることでまた傷つかざるを得なかった。かかる行為の二重性の、その代償として三日女独自の前衛と美学はもたらされたのである」とある。さらに続けて「〈高野烏〉にのみ拘ってのみ述べよとの依頼であった。忠実にそれに従ううちに、すでに潰えたと思われたあの砦の方に一人の女性(にょしょう)の過(よ)ぎるのを垣間みた。その時代時代を濃く生きた証しを目尻に刻み、だが、気品は失せず、微笑のなかに、小悪魔的な面影すら偲ばれる。〈高野烏〉はそのトータルとしての所産なのか。ならばいささかの物足りなさとは愚かなる私の的外れな言いがかりなのか。因みにとここ数年の彼女の句に目を通したのち、それらと方法を異にせぬこの一句を振り返る。いましばらくこの一句につて考えてみようか。風に吹かれた樹のその根っこにころりころげぬようにどっかと座り、今宵、叢雲に隠れた名月の再び現れるのを待ちながら〉と述べる。

 八木三日女、本名は下山ミチ子。俳句は大阪女子高等医学専門学校(現・関西医科大学)在学中に「天狼」の平畑静塔、西東三鬼、橋本多佳子らに学んだ。同人誌「夜盗派」を渋谷道らと創刊、のちに「海程」同人。1964年には「花」を創刊、代表を務めた。句集に『紅茸』『赤い地図』『落葉期』『石柱の賦』『八木三日女全句集』など。眼科医で、東大俳句会の米元元作は息子だった。地元の堺では与謝野晶子の歌碑建立など顕彰に尽力した。享年89。


2014年8月1日金曜日

続・11、穴井太「たでの花阿蘇山系は水の音」

穴井太「たでの花阿蘇山系は水の音」

                                    
穴井太(1926〈大元〉12.28~1997 〈平9 .12.29 〉の自信作5句は以下通り。

鳥雲にぺこんとへこむコーヒー缶      「天籟通信」平成元年4月号 
たでの花阿蘇山系は水の音            〃   〃  9月号   
死ねば指組むえんまこおろぎ少し鳴き       〃   〃  12月号  
前面にわれもわれもと霞けり           〃   平成2年6月号   
葉桜や男は鳥のように発つ            〃    〃  7月号

一句鑑賞者は筑紫磐井。その一文は、枕に漱石「二百十日」の阿蘇の描写、志賀重昂「日本風景論」の阿蘇の描写を引いたのちに次のように記している。

阿蘇は日本の代表的な内陸系火山であり、万葉の火の国以来それは西海道の象徴となってきた。そして、風景は人間を作る。阿蘇にかかわる人たちはどうもこの阿蘇のどろどろとしたマグマのような精神をその生に汲んできたようである。古くは筑紫国造の反乱、あるいは南北朝の菊池一族、宮本武蔵もこの地で死んだという伝説があるし、明治の西南戦争の一の主戦場が熊本であったのも偶然ではない気がする。鬱勃として悲劇的な終わりを好む性はまさに阿蘇に根ざしているのではないか。 
掲出の句も、作者が九州に住むということを度外視しても、「山系」という言葉が人の精神の中まで根を延ばしているのは疑い得ない。水脈のような一本の流れがこの火の国・筑紫の国には走っているのだ。そして時折、歴史の表面にその顔を表すとき、人々はそのエネルギーの凄まじさに驚き、或いは京都・東京の政治は震撼した。そうでない時は?たでの花のように忘れられひっそりと山道に花を咲かせていたのであろうか。

筑紫磐井の俳号の由来もまさに、6世紀前半、継体天皇の時代に、筑紫国造磐井が北九州に起こした叛乱に由来していよう。この鑑賞文が掲載された当時には、気が付かなかったが、この穴井太の鑑賞文を、よりによって筑紫磐井に依頼したことの因縁を思う。僕がまだ俳句に手を染めて間もないころ『ゆうひ領』という句集名に魅せられて書店で買ったのが穴井太との最初の出会いだった。

  ゆうやけこやけだれもかからぬ草の罠       『ゆうひ領』 
  吉良常と名づけし鶏は孤独らし       『鶏と鳩と夕焼と』

 かつて僕が、現代俳句協会青年部委員をしていたとき、総会などで何度かお会いしたが、九州の金子兜太という感じで、風貌に似あわぬ繊細な気遣いと親分肌の人だなあという印象だった。