穴井太(1926〈大元〉12.28~1997 〈平9 .12.29 〉の自信作5句は以下通り。
鳥雲にぺこんとへこむコーヒー缶 「天籟通信」平成元年4月号
たでの花阿蘇山系は水の音 〃 〃 9月号
死ねば指組むえんまこおろぎ少し鳴き 〃 〃 12月号
前面にわれもわれもと霞けり 〃 平成2年6月号
葉桜や男は鳥のように発つ 〃 〃 7月号
一句鑑賞者は筑紫磐井。その一文は、枕に漱石「二百十日」の阿蘇の描写、志賀重昂「日本風景論」の阿蘇の描写を引いたのちに次のように記している。
阿蘇は日本の代表的な内陸系火山であり、万葉の火の国以来それは西海道の象徴となってきた。そして、風景は人間を作る。阿蘇にかかわる人たちはどうもこの阿蘇のどろどろとしたマグマのような精神をその生に汲んできたようである。古くは筑紫国造の反乱、あるいは南北朝の菊池一族、宮本武蔵もこの地で死んだという伝説があるし、明治の西南戦争の一の主戦場が熊本であったのも偶然ではない気がする。鬱勃として悲劇的な終わりを好む性はまさに阿蘇に根ざしているのではないか。
掲出の句も、作者が九州に住むということを度外視しても、「山系」という言葉が人の精神の中まで根を延ばしているのは疑い得ない。水脈のような一本の流れがこの火の国・筑紫の国には走っているのだ。そして時折、歴史の表面にその顔を表すとき、人々はそのエネルギーの凄まじさに驚き、或いは京都・東京の政治は震撼した。そうでない時は?たでの花のように忘れられひっそりと山道に花を咲かせていたのであろうか。
筑紫磐井の俳号の由来もまさに、6世紀前半、継体天皇の時代に、筑紫国造磐井が北九州に起こした叛乱に由来していよう。この鑑賞文が掲載された当時には、気が付かなかったが、この穴井太の鑑賞文を、よりによって筑紫磐井に依頼したことの因縁を思う。僕がまだ俳句に手を染めて間もないころ『ゆうひ領』という句集名に魅せられて書店で買ったのが穴井太との最初の出会いだった。
ゆうやけこやけだれもかからぬ草の罠 『ゆうひ領』
吉良常と名づけし鶏は孤独らし 『鶏と鳩と夕焼と』
かつて僕が、現代俳句協会青年部委員をしていたとき、総会などで何度かお会いしたが、九州の金子兜太という感じで、風貌に似あわぬ繊細な気遣いと親分肌の人だなあという印象だった。