2015年5月29日金曜日

続・18、田中裕明 「夏鶯道のおはりは梯子かな」



田中裕明「夏鶯道のおはりは梯子かな」

田中裕明 1959〈昭34〉10.11~2004〈平16〉.12.30の自信作5句は以下通り。

楪に筆のはやさと眼のはやさ          「青」平成2年3月号 
春氷からの鞄を持つて出て              〃   5月号  
空港で鞄にすはるチューリップ            〃   6月号 
夏鶯道のをはりは梯子かな              〃   7月号 
さみだれは赤子の髪に細かかり            〃   8月号  

一句鑑賞者は、はらだかおる。その鑑賞文は見事に田中裕明の句の在り様を描き出している。以下に少し長めの引用をしておきたい。「田中氏の作品に触れる度、日常という地平からふわりと浮遊する感覚を感じてならない。それは非日常を自ら作りだそうとする『意思』というより、日常の向うに透けて見えるものを静かに捕えている『眼』の存在を感じさせる。そしてなにより、見えるものを言葉にして表現しうる力が氏にはある。そう書くと当り前のことを言っているようであるが、『定型』というものの中でどうすれば言葉がよりよく生きていくかを充分に知っている者はそう多くはいない。しかし、このことは氏にとっても両刃の剣であり、ときに言葉の技法の方が表現された内容、つまり『眼』の存在よりも先に見えてしまうことがあることも事実だ。

 『浮遊する感覚』とわたしは書いた。それは死の作品群の根底を共通して流れるものである。そしてそれは地面から大きく離れるほどの浮遊ではなく、ほんの5㎝だけ浮かぶ感覚なのである。先に揚げた作品の中でいえば、『梯子』というキーワードがこの句を氏の作品としている部分といえる。
 この『梯子』の存在を提出した瞬間、上句・中句までに展開していた日常性がふわりと重さを失い、『梯子』というたよりなげに揺れ、また未知の部分に誘う存在におもわず足を掛けることになってしまうのだ。そして、この句の読み手もまた、この『梯子』に足を掛けてしまっているのでる。(中略)読み手が『梯子』に足を掛けてしまったということは『田中裕明』の世界に深く入り込んでしまったことにほかならない」。

 田中裕明の最後の句集『夜の客人』(ふらんす堂)は2005(平17)年の元旦に年賀の挨拶とともに贈られてきた。しかし、その賀状の挨拶状を送り終わっていた前年末12月30日に田中裕明は白血病による肺炎によって亡くなっている。享年45。その悲痛な訃に接したとき同時代の多くの者は、先に攝津幸彦を失い、今また田中裕明を失ったと思ったのである。




2015年2月6日金曜日

続・17、攝津幸彦「日輪もスープもさびし青あらし」



攝津幸彦「日輪もスープもさびし青あらし」

                                    
攝津幸彦 1947〈昭22〉1.28~1996 〈平8.10.13)の自信作5句は以下通り。


立ち上がり皇国(すめら)乙女となりしかな  「俳句研究」平成2年3月号 
厠出て小さきをみな青葉せり          「俳句」平成2年5月号  
傘さして馬酔木見し人隠さるる           〃     〃  
日輪もスープもさびし青あらし          「豈」No.13 ‘90春号 
簾して仔牛の肉を叱りたり             〃    〃  

一句鑑賞者は仙田洋子。その鑑賞文の中ほどにから終わりにかけて「『太陽もスープもさびし青あらし』ではない。『日輪』という間接的な表現で、太陽の輝きは知らないうちに抑えられている。スープを飲む。混沌としたポタージュ、澄んだコンソメ、どちらにしても確かな実体はない。日輪とスープ皿、二つの円に気づいた意識の中で、天地は親しく融け合い始める。そしてただ吹きすぎていく青あらし。一句が呼び醒ますのは、空虚さえ感じさせる茫漠とした意識の空間だ。何故このような空間が生まれたのか、それぞれ読み解くほかはない。この空間は、それ以上何も語ろうとしない。/私は掲出句を非常に現代的な現代俳句と読む。繁栄に浮かれ平和に押し流される。不自由はないが本当に欲しいものもない。おだてられているだけの胸の内に漠然と感じる虚しさ。似ているではないか、たかがスープ皿片手の漠然とした嘆きに。単なる感傷と混同されそうな無力な呟きに」とある。ここには、当時、すでに四半世紀、約25年前のことになるが、仙田洋子が読み解いてみせた現代の社会の在り様が今なお留められている。攝津幸彦が当時、まだほとんど無名だった時代、そして攝津幸彦が時代の波を全身に浴びながら、空手を差し上げて俳句表現の新しい何かを探し求めていた頃の句である。

 現在は、攝津幸彦は夭折とその後に、すっかり人気俳人の一人になってしまった感さえあるが、ようやく彼がつかみ取ろうとしていた感受が普遍化されはじめてきたということなのかもしれない。そういえば、宇多喜代子がいつだったか、「攝津幸彦が生きている間にもう少し攝津のことを語ってあげればよかったのにね・・」と少し怒るような調子で言っていたことを思い出す。幸彦の母・攝津よしこは角川賞受賞俳人にして、宇多喜代子と同じく桂信子「草苑」同人であった。